2014年8月22日金曜日

Journey to Italy 2014 (10): Villa d'Este

ジャーニーtoイタリー2014年の最終回です。
最後まで目ぇチカチカさせながら読んでくださってありがとうっ!
たくさんの方に読んでいただいて、書いた本人ビックリしてます。
人気ブログ登録するべき?がははは。



さて・・・。
地震の街、ラクイラでどーーーーーーんと落ち込んだあたしたち。
高速道路ではムッツリ押し黙ったままだった。

が、「ティヴォリはこの出口」っていう標識を見た瞬間「ティヴォリのエステ荘に連れてって!!!(原田◯世風)」と叫んだのであった。
噴水で誉れ高いルネッサンスのヴィラ「エステ荘」でこの旅をしめる事にした。
コモ湖のエステ荘(☜クリック)何度も行ったけど(おほーほーほー)、こちらの本家本元には行った事なかったの。

ところでみなさん、リスト作曲の「エステ荘の噴水(巡礼の年第3年)」って曲ご存知?
日本の音大時代、この曲をレッスンの受けてる子が師事していた先生からあたしの目の前で
「これはイタリアにあるエステ荘っていう貴族の別荘にある噴水を模した曲なのよ。あなたエステ荘の噴水見た事ある?写真ぐらいは見ておきなさいね。」って目の前で言われてたの覚えてる。
でもこのエステ荘の噴水、行かれた事ある方は知っていると思うけど、写真なんかでは到底言い尽くせない圧倒的な凄みがあるのよ。
庭にある一つの噴水が優雅で素晴らしいのかと想像してたら、とんでもない。
優雅どころか、庭のいたるところから水がだーーーーーーっ!!!っと垂れ流し状態で出てるの。
ジョが何言ってんのか聞こえないぐらいの轟音が広大な庭中に鳴り響いていた。
すごい高さまで消防車みたいに吹き上げてるのもあれば、カーテンみたいな滝のもあり、影に隠れた小さいのあり、オルガン付きのあり、洞窟あり・・・。

巡礼の年というそのタイトルも厳かな曲集の中の一曲で、美しい女性ピアニストが良くお弾きになるので勝手にフェミニンなイメージがあったけど、本物はその曲のイメージとちょっと違った奔放で男性的なものだった。
例えは悪いけど、可愛らしいしょんべん小僧見に来たつもりが、行ってみたら100人の美しい男性が一斉に笑いながら放◯してる感じよ(私感ですw)。
その広壮さだけじゃない、これでもかというぐらいの精神の開放感よ。

「こんなにたくさん噴水があってしかも隠れる場所もあって・・・。絶対にそのあたりで官能的なことしてたよね。うふふふ。」

「・・・・当たり前でしょ。それしないでほかに何するの?いい年ぶっこいて子供みたいなこと言うなー。」

なんて会話ありーの。

昔の貴族は逢い引きの後はその庭のそこかしこから出てる水でちょちょっと部分的に洗浄して、何食わぬ顔して屋敷にもどって舞踏会していたのであろう・・・な。
西洋のエロスは結構判りやすいのであったw
Ω\ζ゜)ちーん

ルネッサンスの人は口では言わずともいろいろ想像させるから素晴らしいのよ


前回のブログから引き続き言わせてもらうけど「本当のことは行ってみないとわからない」もんだわよ。

ラクイラでどーんと来てたのに、ちょっと元気になった・・・の通り越して、いやだ、あれぇぇぇ。

し〜ん。

大体クラシック音楽って(たとえそれが表題があったとしても)、「噴水を模した曲」みたいに表層的な言葉で簡単に言い表せるものではない(誰が聞いても噴水みたいな曲ってわかる)。
大作曲家が作品の中に密かに込めているものと(思われるものと)、ちっぽけすぎる自分の感覚がちょっとでも合った時ほど嬉しいものはない。
が、この心の中にぽっと灯るような感覚はもちろん言葉では表せない。
ちなみにラヴェルはこの「エステ荘の噴水」を模して「水の戯れ」という曲を書いたが、それにはエステ荘とは違う種類の色の水が描かれているけど、それが何なのか、渋沢龍彦じゃないので、さらにもちろん言葉では表せないww
言葉にできないから音楽なのだ。うん。
是非聞いてみて♡


今回のジャーニーではイタリアという結構知っていたはずの国の、洗練された都会にはないつつましやかな側面やら、とてつもなく深刻な一部分も垣間みれたのが何よりもの思い出です。
金満的でファビュラスなミラノのモンテナポレオーネや美味しい食べ物だけじゃなく、「どげんかせんといかん」ところはこの国には沢山あるのね。
どの国も同じでありんす。

1週間も一緒にあたしみたいなもんと旅をしたくれたジョの、今まで知らなかった部分(性格よっ!!!)も発見したのもビックリ。
20年も知ってるのに(吐)。
友人と旅をしてみると、その人のいつもと違った一面が思わぬところで抽出されるから面白いねー。
それが今回みたいに素敵な部分だけ浮き立つようだったら儲けもんだけど。
(だから成田離婚もあるんだわねー。海外に行く前にまず国内旅行しなー。)
そんなジョは最近毎日のようにイタリアからテクストしてきて「あの旅を思い出すと泣けてきちゃう」って言う。
あぁ、よろしかったことで 〜〜〜〜〜(/ ̄▽)/ 〜ф"


もしかしたら今回の旅で一番の収穫は、イタリアやジョの良さだけではなくスウェーデンの良さすらもちょっと判ったことかも・・・。
「どけんかせんといかん」部分が表立って一切見えないスウェーデンって、ある意味すごくない?!(食べ物ぐらいか・・・し〜ん)

あぁ、旅はするもんである。



夕陽がおちる。エステ荘の噴水の最後の8小節のイメージ・・・

あたしはこのクラウディオ・アラウの弾くエステ荘(☜クリック)が一番好き。
言えばミスが多少あるかもだけど、それでも大好き。
1音1音くっきり弾かれた音符が人間の脳が解析できるぐらいの優しいスピードで断続的にやってくる。
これぞ水。これぞハンマークラヴィーア。
アラウはゆっくり過ぎて嫌い、などとのたまうやつらは野暮の骨頂です。

2014年8月21日木曜日

Journey to Italy 2014 (9): L'Aquila

L'Aquila(ラクイラ)。

地震は本当に恐ろしい・・・これ以外に言葉なし
自慢だった美しいベランダ付きのアパートメントを一瞬で過去にしてしまう


2009年4月6日、アブルッツォ州の州都ラクイラを襲った地震のことを覚えているだろうか。
その後の11年の甚大な東日本の震災で世界はもとよりイタリアの人からの注目も遠のいてしまった感があり、不謹慎にもあたし自身の記憶からもすっぽり抜け落ちていた地震である。

そのラクイラに絶対に行ってみたい、と、いつにもなく重たい調子でジョが言う。
日本の被災地にも行った事ないのに。
ラクイラに行ったら東日本とオーバーラップして、自分が収拾つかなくなるのはイヤだなぁ、などとモヤモヤ思ってたけど、ジョが珍しく見せた真剣さに負けたのだった。

まぁ、よく考えたら死者300人の被害ぐらいなら東日本の約2万に比べたら、アレよ、ねぇ。
しかももう5年も前のことだし。
復旧作業もすっかり終わり街にはきっと活気が戻っているころだろう、とジョも言うことだし、「行ってみても良いかなー」とやや楽観的に思ったのだった。

ある東日本大震災の被災者の方が
「みなさんの記憶からはやがて遠のくだろうが、私たち被災者の記憶からは絶対に遠のかない」と言ってたのを覚えている。
それを聞いた時に「当事者にしたらそうだろなぁ。心中お察しもうしあげるわー。」と思った記憶があるが「他人の言ったことを知識として理解する」ということと「ほんとに心からわかる」ということ、すなわち“百聞は一見にしかず” というのがこんなに違うものかということをこのラクイラへの旅で知った。


その日から干されているであろう洗濯物
地震発生は午後の3時だった


ラクイラは震災から5年経った今でも、あたかも半年前にそれがあったかのような様相を呈していたのだ。
ついこないだまで「街」だったものが、大きな怪物の死骸みたいに横たわっている感じだった。

行ってみるまで、ラクイラがこんなに歴史ある大きな街だったとは知らず、その崩れた建物の文化的価値の高さにも驚愕させられる。
周囲は山に囲まれているのに、そのふもとの小さな真珠のようなこの都市をまるで狙い撃ちしたかのように地震が襲ったのだ。

中心部の18〜19世紀初頭に建てられた美しいアパート群には外に工事用の鉄のパイプが組み立てられているだけでひとっこ一人住んでいる気配はない。
復旧作業している人達もまばらで、ほとんどのビルディングがそのまま放置されているように思えた。
この半分ほったらかしのような現状はイタリア人のジョもまったく知らなかったらしく、非常にショックを受けて唖然としていた。
夏休みで作業を停止していたのだろうけど、それにしても・・・。

目抜き通りのバールには人々の安否を記した沢山のメモが
これ以上立ち入り禁止で近づけず


街の建物の前には「この教会を建て直すためには4ミリオンユーロ(4億5千万円)」「この劇場を建て直すためには10ミリオンユーロ必要」など、天文学的な復旧工事費用をしめした表示がかつては優美だったアーケードに怒るように貼られていた。

危険な場所のはずなのに、あたしたちがふらりと入れてしまう建物が、そこここにあるのにもびっくりした。
というか、あたしたちがこうやって容易に立ち入ることができるのにもかかわらず、かつてそこに住んでいた人達が震災後5年の間に戻って来た気配がまったくないアパートや店舗が沢山あるのはどうしてだろう。

変わり果てた姿になった自分の家へ戻ることは、それほど辛いことなのだろうか。
そのあたりの事実は良く判らないから気安くは書けないけど、床に放りっぱなしのおもちゃの持ち主の子供の安否を否が応でも想像してしまう。
言葉にできない不可解で不条理なことだらけなのだった。

ジョも「街の人に今の状況を聞いてみよう」なんて最初は意気込んでいたのに、たまたま開いていた(何軒か開いているお店はある)バールのご主人にはショックすぎて何も聞けず。
あたかも寄付するような気持ちで意味もなく何杯もコーヒーやプロセッコを頂くだけの無力なあたしたちだった。

ピアニストの内田光子が(これ前にも書いたが)
「この世で一番恐ろしいのは『それを知らない』ということです。その事実から離れたところにいる人はその事実の本質を知ることはないということです。」
の真意が少しわかった一日だった。

地震やラクイラの惨状が怖いというだけではない。
世の中には本当は自分の知らない事だらけというその事実と、あたかもなんでも人々に知っていると思わせてしまう、まるで誰かに操作されているようなこの情報社会が、本当に怖い。

被災されたすべての方達の心に平安が早く戻りますように。

合掌します。


危険と思われる建物にも容易に入れる

それでも聖人へのお花は絶やさない









2014年8月20日水曜日

Journey to Italy 2014 (8) : Santo Stefano di Sessanio

タオルの交換も村を行ったり来たり


昨今いろんな「極上のホテル」系の本が出てて、そのセレクションのほとんどはお値段も極上。それだけ払うんだもん極上じゃないと訴えるわよ、の世界である。
極上のセレブホテルに泊まってる自称セレブの知り合いのお部屋にお邪魔したり、多くはないが自分自身も泊まったことあるけど、そりゃ文句はないし、良いか悪いかと聞かれたらもちろん「大変良い」だけども「また泊まりたいか?」と聞かれたらちょっと首をかしげてしまう。
セレブが認めた☆が◯個の「極上ホテル」に必ずしもまた泊まりたいわけじゃないのよ。

あぁビンボーなあたしが書いても、なんの説得力もありゃしない(涙)。

というか、そういうホテルはあたしの身の丈には全然合ってないと言ったほうがいいかも。と、この長い人生で学んだのだった。
とにかくそういうホテルではあんまりリラックスできないのよ。
つか、無理にリラックスしてるフリしてんのww
東京で住んでたところの近くに外資系のセレブホテルがあって、そこに泊まりに来てた友達が
「こんなとこきんちょーしちゃうねーっ!」
って言ってたの思い出すけど、この年んなってきんちょーしてまでホテルに泊まりたくないのよ。
きんちょーはしないけど、あの取ってつけたようなしゃっちょこばったサービスとか滑稽に思えて来て、バカらしくなってきちゃう。

かと言えば、最近ありがちの食べれないぐらいの量の料理が出る、そして焼酎飲み放題、しかも女将頼んでないのに踊る、みたいなところもキツい。
たまにそういうとこに泊まると「押し付けがましいサービスを受けてあげた」という気分になるところがないでもない。
あぁ、泊まる所と自分の関係性って、難しいわーっ!
あたしが受けたい究極の「お・も・て・な・し」って何?と考えていた所に、このSanto Stefano di Sessanio (サント・ステーファノ・ディ・セッサニオ)のホテルにめぐり会ったのだった。

死にかけていたこの過疎の村に散らばっていた空き家をスウェーデン系イタリア人の若きオーナーが買ってホテルにして、村おこしをしたというのだ。
このお部屋が村のそこここに散らばっているありさまから、
「Albergo Diffuso」って名前なの。Diffuse=散らばる。


村の入り口に受付と事務所の建物があって(デカワンコ↑がいつも寝てた)そこで地図をもらって自分のお部屋(家)を確認。あたしたちの部屋は事務所の前だったけどw

超簡素かつ広いリビング
そのお部屋というのも、テレビやミニバーやら余計なものが一切なく、どちらかというと修道院の個室(想像)のような造りなのだった。が、広い。
ダブルのベッドと、一つ小さいベッドが置いてある部屋、そして寒い時は薪をくべられるほんものの暖炉のあるリビングルームがあった。ソファはなかった。Wi-Fiは完璧♡
荷物を置いてひとしきり「ワンダフル!ファビュラス!」を連呼したウザいあたしたちは、その後村に出る。
と言っても10分で一周できちゃうぐらいの小さな村。
2009年のラクイラの地震でこの村のシンボルだった塔が崩れてしまい、今は急ピッチで復興作業が進んでいた。その状況からみても、この村が過疎から脱したというのがわかる。しかし村のあちこちに立ち入り禁止区域があって、まだ完璧な状態じゃないの。
観光のついでにそれも見てもらって村の現状を知ってもらうというのも、皮肉だし不謹慎かもだけどなかなかいいなぁと思った。
ちなみにこのホテルは2005年に建ったというから、地震の時は集客的にも痛手をおったのだろう。

震災で廃墟になってしまった家も残念ながらまだある

オーガニックのハーブティと焼き菓子が専門のカフェ
ディナーはホテルが立つ前からもともと村にあったレストラン兼酒屋さんと提携していて、宿泊客はそこへ出向いていただく(なんと宿泊料金に含まれていた)。
都会からのあかぬけたファッションのお客さんたちばかりで、最初はその夕餉の場所の素朴過ぎるありさまに「ぎょっ!」とするの。「ここがホテルのレストランですか?」とおっかなびっくり聞いてらっしゃる方もいる(爆)。
※プランによっては違うレストランになることもあり。

「メニューは、キノコとビーフとひつじ。パスタもあるし。ズッキーニフラワーおすすめ。どうしてもらいたい?」みたいな感じの、素朴(言葉選び中)なサービスでそれもまた最高♡
キノコのパスタとお肉をいただいたんだけど、まーほんと、筆舌しがたい美味さだった。

冷蔵庫の前に置いてあるテーブル 満席だった

その後、ジョとホテルのバー、といってもこれも何かの店舗だったところを改造したものだが、に行ったらレストランにいた皆さんがいた。
テーブルで隣り合わせたローマから来たという美しいご夫婦とお話しする。ご夫妻でウェディングプランナーだそうで、休暇も兼ねてここのホテルを偵察にきたという。
ちなみにイタリアの素晴らしいところの一つはバーや酒場で酔っぱらって大声で喋ってる人なんて誰もいないところよ。道でゲロるなんてもってのほかだわよ。
北方のやつらに見せてやりたいわ、この静かさを。日本の方も気をつけてね。

バーにて



はじめは外に座っていたのだけど寒くなって中に入った 山の夜は本当に冷える
小さいほうのベッドルーム 修道士の寝床のよう

朝食は、村の反対側にあったそれ専用のレストランに出向いた。
昨夜レストランでもバーでも見なかった宿泊客もたくさんいた。ほぼ満室だったらしい。
ちなみにあたしたちはこのホテルに泊まることに決めたのは昨日だけど、泊まる前日に予約して来るようなお客さんがイタリアには多いんだって。
「前々から計画する国民性じゃない」とジョは言う。
確かに今回の旅でどのB&Bもホテルも泊まる寸前に取ったにしては全然オッケーだった。

朝日が忍び込む朝食のテーブル
過疎で人口が50人ぐらいになってしまった村、さらに突然震災にも遭った。
それにも関わらず若者達がサービスに勤しみ、そして世界中のお客さんが節度をもって静かに滞在を楽しんでいる姿に感動したし、日本にもこういうのあったら良いなぁって心から思ったわ。(あるけどあたしが知らないだけ?)
インフィニティプールの横でマルガリータ飲むだけが極上の大人の休日ではないのだわぁ。

過剰なサービスに圧されることも、「融通きかないわねぇ」なんてこちらが思うこともなく、しかも村の経済の一旦を担っているのではないかという気持ちにもなり、さらにはイタリアの過疎の村の厳しい現状も知る事ができて、右脳も左脳も満足してこの村を後にしたのだった。
死ぬ前にはきっと思い出すであろう体験のひとつになりました。

っていうか、こんなに宿のことだけ書いていいのかしら。
宿に頼まれたわけじゃないのにw
まるでまわしもんみたいに調子ブッコいて書いちゃったけど・・・。

ホテルのウェブサイト(☜クリック)

ちなみにこのサイトにもある『Our Pic Nic』というプランを利用。
チェックアウト時になんと、本物のピクニックバスケットが渡される。
中にはガラスのボトルに入ったワイン、オリーブオイル、サンドウィッチ2種類(二人分4個)、パン、サラミ、チーズ、リンゴとナシ、そして本物のグラス二つが付いてくる。
車でいらっしゃるのなら、是非♡


さらにちなみに、姉妹ホテルである洞窟ホテルが南イタリアのマテーラにある。
ジョはそちらに泊まった時にこのホテルの存在も知ったとのこと。
そちらもかなりのお薦めらしい。

またにゃぁ♡


2014年8月17日日曜日

Journey to Italy 2014 (7): Ascoli Piceno

Ascoli Piceno


「そこへ行ったことはたしかなのに、ある細部、たとえば土地の名前を忘れてしまったために、どこ、と正確にいうことができず、まるで夢で見ただけのような土地がある。」

この忘れがたい美しい一文からはじまる須賀敦子のエッセー、

霧のむこうに住みたい

エッセーによると、ノルチャという聖ベネデットの生まれ故郷の街へバスで行く途中のこと、最後に立ち寄った休憩所の小屋は峠を少し登ったとこにあった。その小屋に数人の羊飼いたちがいて黙りこくってワインを飲んでいた。
そしてその山を下りる時に、

ふりかえると、霧の流れるむこうに石造りの小屋がぽつんと残されている。自分が死んだとき、こんな風景のなかにひとり立っているかもしれない。ふと、そんな気がした。そこで待っていると、だれかが迎えに来てくれる。』

と、ある。

アスコリへのルートをナビに入れた時、途中Norcia(ノルチャ)を通過するということで、あの静かかつ忘れがたいあのエッセーをまた思い出した。
しかもこのあたりの丘陵といい羊の群れといい、慣れたイタリアとはひと味違うシュールリアリスティックな雰囲気がこの須賀さんの一遍「ひとり立っているかもしれない」「だれかが迎えに来てくれる」にまさにピッタリと重なるのだった。
須賀さんによると「ノルチャはイタリア人でもあんまり行かない山の向こう」らしいけど、あの峠の小屋があったのはこの辺かしら、なんて考えてたらジョが唐突に「この辺はイタリア人もあんまり行かないイタリアって言われてるんだよ。」などという。
「このイタリア人もあんまり行かないイタリア」ってイタリア人にとってこの辺りのことを説明する時の常套句なのだろうか。
ちなみにこの辺のアペニン山脈は「イタリアの背骨」と言われている。

『雲が出て、全てを焦がしつくすウンブリアの八月の太陽が光を失いはじめ、霧が視界を遮った。』

8月の熱い太陽は光を失いはじめたが、霧というほどの濃いものは出てこず、須賀さんの「峠」がどこなのかはわからなかったけど、赤茶けた丘陵の遠くに見える群れには興奮した。
ナビで示されていたトンネルはあたしたちが通ったトンネルは須賀さんが行かれた後にできたものらしい。

その山の中を分け入ってトロント川を左に見ながら時には右に見ながらグルグル行って、そのグルグルが終ったころAscoli Piceno(アスコリ・ピチェーノ)の街があった。
太陽の熱はとっくになくイタリアの土のもつ熱さえ失って、かなり肌寒かった。

おじさんたちもどことなく都会っぽい

Piazza del Popolo 


「マルケ州の宝石」と言われるこの街に2泊したんだけど、これと言って見るべきものを特筆するほどではないにもかかわらず絶対に行って欲しい街、に認定したいww
美しい白壁と慎み深く静かな人達はあたしの知ってたイタリアとちょっと違った。
美術館や近代美術館もあるし、有名な劇場Teatro Ventidio Bassoもある。この劇場はピエトロ・ジェルミ監督、ダスティン・ホフマンの映画「Alfredo, Alfredo」が撮影されたことで知られている。ちなみに2009年、ダスティンはマルケ州のコマーシャルにも一役買ったことがある。こちら
これまでの行程が村ばっかりだったので、この小都市での街ライフの2日間はある意味とっても意義あるものだったのよ。
人口5万人しかない街とは思えないぐらい人で賑わっている。
レストランもカフェもジェラートもバーも無数にあるのだった。
5万人なのに人口30万人の我が街よりも、もってる熱量やらVibeが全然違うことに驚愕。
ちなみにアスコリだけではなく、イタリアはどの小都市に行ってもそれなりに活気があってなかなか楽しい感じがするのってあたしだけ?

朝の日課


街の顔であるPiazza del PopoloにあるCafe Melettiには3回も行っちゃったw
このカフェ、イタリアの老舗カフェ150軒に入ってるのが自慢らしいけど、150軒ってどうなん?(爆)そんなこと言わずとも充分に歴史の有り難みが感じられるカフェだった。制服着たパリとかにいそうな「ここで30年やってます」系のウェイターさんがサービスしてくれる。

ローマ時代にアドリア海からローマを結ぶ塩の道「サラリア街道」の要所だったアスコリ・ピチェーノ。食べ物にも凝った塩が使われている。(が、スウェーデンみたいにしょっからくないの)
タリアータ(ステーキ)を頼んだら味付けに塩が5種類ぐらいついて来た。
あたしがこの地で一番好きだった食べ物はカフェ・メレッティのアペリティーボで出たオリヴェ・アラスコラーナ(Olive all'ascolana)というオリーブの肉詰めフライ。
追加してしまったww やめられないとまらない♪
ちなみに名前にもあるアスコラーナ種という大粒のオリーブで作るのがグーなそう。そうじゃないと肉が詰められないし。

Cafe Meletti 
ディナーはこちら(☜クリック)で。
二人で60ユーロだった。
ごめ、値段ばっかり書いて。
でもこの値段スウェーデンでは、
あ・り・え・へ・ん。ありえへ〜ん。(☜クリステル風)



あるパラッツォ(ヴィラ)が売りに出ていたので↑
ここはどういったパラッツォなのか、一体誰が持ちものだったのか街のおばさんらに聞く↓


あたし:「このパラッツォ、ご購入されるおつもり?」
ジョ:「いやいや、口座には30ミリオン(33億円)ぐらいしかないもので。」

みなさん、脳内銀行の口座にはたっぷりとお金が入ってるご様子。

明日はどこへ行こう・・・。
明日のホテルさえ決めていないあたしたち。
ほんと行き当たりばったり。

さて、どうしようか。

するとジョが意味深に
「じゃぁ、あのホテルにでも泊まってみようかなぁ。一人125ユーロとちょっと高いけど、どう?」という。(現実銀行に入ってるお金はカッツカツなのだったw)

「ちょっと高いかもだけど、一生の思い出になるなら。」

・・・・・・それは一生の思い出になるどころか、来世でもきっと覚えていそうな素晴らしい宿泊体験だった。

イタリアの背骨の裏側はなんだかシュールな感じがする


つづく♡

2014年8月16日土曜日

Journey to Italy 2014 (6): Giove & Orte

山を降りて、また隣山への道を登る。
その「イタリアで最も美しい村」に登録されているGiove(ジョーヴェ)へはMugnano(ムニャーノ)から車で15分ぐらいだっただろうか。

ジョーヴェで唯一交流があった方




道路に「ここから『イタリアで最も美しい村協会』に指定されているGioveです」と書かれていた。
村の入り口にはムニャーノからも見えたでかいパラッツォがあって、その裏手の山のへりのところに、ほかの村と同じように、集落があった。
まず家が密集している住宅街のほうへまわってみる。
マリア被昇天祭の次の日の正午ごろとは言え、見る限りでは二人のお爺さんがベンチで喋っている以外誰もいない。さっきまでいたムニャーノの広場には沢山の人が出てたのに、どうしてかしら。
晴天だというのになんだかただならぬ暗い雰囲気が漂っていないでもない。
一匹のトラ猫があたしらにおかまいなしに家の戸口で伸びきって寝ていたけど、かたわらに置かれた椅子には誰も座っていなかった。
他の村よろしく家は密集して建っているのに神隠しにあったみたいに誰もいない。
見ると、そこここの家のドアに「売家」の張り紙。

この辺から気分が暗くなってきた。

なんだか今までになく淋しい村だわねぇ。
もう村はいいからパラッツォだけさっと見て帰りましょうよ。
門まで行き、パラッツォの建物を目の当たりにして呆然。ほぼ全ての窓ガラスが晴れだというのに閉まっていて、中には割れて窓自体が枠から落ちそうなものまである。
さらに近づいて内部を覗いてのけぞる。
ムニャーノから眺めた時に勇壮にそびえ建っていたパラッツォは近づいてみると朽ち果てた、まるでお化け屋敷だった。
その内部の散らかり具合からみて数年前までは人がいただろう形跡が認められた。
ふと外壁を見ると得体のしれないデカく黒い塊が窓枠のところにぶら下がっていてそこから不気味な「もぉぉぉ」っていう音がしていた。
蜂の巣だった。
しかも、それに群がってる気持ち悪いぐらいの蜂の数。
それ見て胃酸がこみ上げてくるぐらい気持ち悪くなってしまって、ジョに
「ごめ、もう帰りたい。ちょっと気分悪くなっちゃった。」ってお願いする。
「ちょっと中庭のほうも見てみたいなー」と言うジョに生まれて初めて「もう帰りたいのっ!YOU一人だけで行って。MEは車で待ってるからっ!」と必死で反論。とにかくこれ以上このパラッツォの深部には一歩も入り込みたくない気分だった。
勉強熱心なジョも今回ばかりはあたし顔面蒼白になって鬼気迫る感じにおされたのか、それとも自分でも気持ち悪いと思ったのか、すんなり下山。
映画ゾンビの主人公が街から逃げる時の気持ちがちょっとわかったような。
(村人の皆さんの名誉のために書いておくが、村に人がいなかったことが気持ち悪かったわけではありません。淋しいなぁ、と思ってたところにあのパラッツォを見たから気分が悪くなったのよ。)
強烈に何か飲みたかったので山のふもとにあったドイツの山小屋風レストランに入る。
そこのウェイトレスに「なんであんなふうになってしまったの?」とジョが聞いてみた。
彼女が語ってくれたGioveこの10年に辿った悲しい物語の概要はざっとこうである。

ローマとオルヴィエートの間にあって、高速道路の出口からさほど不便じゃないところにあるGioveはそれはそれは美しくて活気のある村だったけど、あおる不況の波で10年ほど前にあのパラッツォが売りに出された。
それを購入したのはアメリカ人のまぁまぁ名の知れたB級映画のプロデューサーだったという。
パラッツォの持ち主になった彼は当時は村の人を雇ってパラッツォを掃除や庭の手入れをさせたり、近くにバーやらレストランまでオープンするぐらい羽振りが良かったらしい。
最初の3年はフィウミチーノ空港からヘリで来て、パラッツォの中で映画(ポルノらしいが)を撮ってたほどのセレブぶりだったのに、4年目からまったく来なくなり、今ではその存在すらも確認できなくなった。
しかも雇っていた村人への給料も未払いのまんまトンズラしたというのだ。
その後、3年もかけずに幽霊屋敷になったパラッツォを誰も購入(地方自治体すらも)せず、村は衰退の一途を辿っているという。

資金難のために売りに出された村の象徴であるパラッツォ(☜クリック。その勇姿を見よ)が、そのドアホな持ち主の無責任さのために放置されて幽霊屋敷になってしまい、そして「最も美しい村協会」に選ばれたその村自体も衰退しかけている。
誰も手のつけ用がないというところに激しい憤りを感じる。
ローマはじめトスカーナや湖水地方などでは金持っている外国人たちが高級アパートやヴィラを買いあさっているという(ジョージやアンジェリーナ気取りで)。イタリアの街中を最近金持ちになったかなんか知らんがオッパイ半分出して歩いてるあの国のやつら(あいつらよっ)に乗っ取られたらどうしよう。
ニューマネーの人達が価値のある土地をセカンドハウスとして購入して、そこへは1年に1回しか来ず結局その街を殺してしまうっていうの、深刻な社会問題よね。

ジョーヴェに再び活気が戻らん事を心から祈りつつっ!!

そのレストランでプロセッコ飲んで、それから車でローマ方面に30分車で行ったところにスウェーデンのBちゃんの結婚式で初めてお会いした日本人女性のエーちゃんが住んでいる。
ジョーヴェのパラッツォでよっぽど動転していたのだろうか、それとも栄華を極めたパラッツォの元城主たちのたたりか、たしか「ローマ方面」って書かれていた標識を二人で確認して進入したはずなのに、向かってる先は反対側の「オルヴィエート」。
なんでぇ!?!?いきなりナビが「目的地まで30分」から「1時間10分」に変わった。
とことんついてない日なのだろうか。

そんなこんなでオルヴィエートまで行って、来た高速をえっちらおっちらもどりエーちゃんと音楽家のFさん夫婦の住んでいるOrte(オルテ)へ約100キロの道のり。
このオルテも他のヴィテルボ県の村と同じように山の上にあるのだけど、他のよりも規模が大きく、中腹にもふもとにも沢山の家やアパートが建っているので一つの大きい街にように見える。エーちゃんの家は旧市街、すなわち山の上の崖の切り立ったところにあるという。街の中腹にある駐車場まで迎えに来てくれてたエーちゃん夫妻と共にこれまた美しい街の観光を少しした後、その一風変わっているという家へ。
途中バールでFさんにクロディーノご馳走してもらったら気分がすごく良くなったw
なんと、そのエーちゃんの家、紀元前4世紀ころにエトルリア人によって人為的に作られた洞窟の上に建っているの。その洞窟、もとは鳩を餌付けするためのものだったというのよ。地下2層になっていて、その壁中に四角い穴が開いている。
日本にあったらきっと観光名所にされているだろうようなところに一般家屋がおすましして建っているってほんとイタリアってすごいわぁ。

約2500年ほど前に鳩が寝泊まりしてた壁
エーちゃんの家の屋上からの眺め 目障りなものが何もない

あぁ、あたしは以前Fさんの仕事でスウェーデンに住んでいたエーちゃんとスウェーデンの話で盛り上がりすぎて、写真撮るのもそこそこだったっていう。オルテの街中では一枚も撮ってない(涙)。また戻る理由ができた(がははは)。

6時ぐらいまでオルテにいた。
そこから今夜はAscoli Piceno(アスコリ・ピチェーノ)というマルケ州の街まで行くらしい。ナビに入れてみたら2時間半!
地図で見たところそんなに遠くでもなさそうなのに。
今日ジョは4時間近く運転していることになる。
あぁ、ほんとありがたいっ。







2014年8月15日金曜日

Journey to Italy 2014 (5-2): Mugnano in Teverina

前編より・・・。

一日中本を読んで過ごしたいロッジア


そのB&Bの前に立ってジョと二人でビビる。
村の中心に堂々と鎮座している正真正銘のパラッツォだったのだ。
元はローマの名門貴族(この名門って言葉に弱かろうあたしとあなた)オルシーニ家のパラッツォの一つ(数ある一つ)だったものを現在の所有者エルザとガブリエッラというこれまた英語を一言も喋らないおばちゃん姉妹がその家族たちと切り盛りしている。
当たり前だけど入り口も正面の木のまるでGame of Thronesに出てきそうなデカい門をくぐって入るの。
ちなみにこないだ行ったボマルツォの街中のパラッツォも怪物公園ももとはオルシーニ家の持ち物。

チェックインが8時だったのでエルザさんから「被昇天祭のパレードに間に合うように今すぐ夕食したほうがいいわ。夕食は街のタバッキ(タバコ屋)で食べてもらってるのよ。」と言われた。そのタバッキとは村に一軒しかない何でも屋で、洗剤からワイン、チーズから鉛筆まで売ってる。そのタバッキの外の広場で美味しいハムとチーズの盛り合わせ(大盛り!)と地元産のワインだけいただいた(パスタ作りましょうか?と言われたがなんと断ったの)。ちなみに全部で18€!!
昼間あんなに暑かったのに、山の上なので夜はセーター無しではちょっと寒かった。

外で夕食をしていたら、村の人たちが広場にぞろぞろ集まり始めた。
あたしはもとより、イタリア人のジョの存在までもがちょっと浮いている。
村の方達はなんていうか素朴で、街のすれからしの人達とはちょっと違って見えるものだわよ、うん。
などと考えながらぼーっとしてたら、目の前で80歳ぐらいのおばあさんがほぼダイビングする形で派手に転んでしまったの。
ちょうどパレード見るためにいた若い人たちがバッ!と駆け寄って起こしてあげた。なんともなくてよかったけど、こういう石畳や坂(大体このヴィテルボ地方の村は坂になってる)は慣れていらっしゃるとはいえ老人には危ないなぁとこの旅でイヤというほと思い知らされた。この後訪れた村でもずっこけてるじーさんやらけつまづいたばーさん見たから。
しかも助けるべき若者たちは都会に出てしまって、普段はじーさんばーさんだけみたいなところ本当に多いのよ。これ日本でもそうだわよね?
うちの母がフィレンツェの石畳で小学生みたいに転んで持ってたあたしの高いカメラ叩き割ったのを生々しく思い出す。

マリア被昇天のパレードが始まった。
そのパレード、パレードとは言え本当に厳かで(☟ビデオ参照)であまりの静寂さとこの村の方達の信仰の深さにジョも心の汚いあたしまでもが涙してしまった。
イタリアのマンマ(お母さん)大好き文化はこのマリアの存在に深く関わってるのだ。
マリアのお陰で家族が団結。団結するためには食卓が必要で、その食卓には美味い料理。
その美味い料理につられイタリアにしょっちゅう来たくなるのは元をたどればマリアのコンスピラシー(陰謀)なのだったww
ジョはよこでベソかいたみたいなってるw
一年半前に亡くなったお母さんと行ったパレードのこと思い出してるんだろう。
あぁ・・・恐るべきマンマ教!!ww


パレードが終った後、みんなでスイーツを食べるのが習わしらしく、パラッツォの人達が広場にテーブル出してその上にスイーツの皿やらジュースやら出し始めた。
ちなみにこれでわかったのだが、パラッツォの人達は集落には必ずいる(あたしも田舎出身なのでわかるが)「名士一家(ふくみありw)」なのだった。
まぁありがたい存在ではあるのよ。



ヘトヘトだったあたしは先に就寝して、爆睡してたからいつジョが寝たのかもわからず。

朝起きたらまた快晴だったわっ!!

朝食はパラッツォ内の素晴らしい部屋で、ローマから来た素敵な英語完璧なご夫婦と。
その後ガブリエッラさんから城のツアーをしてもらったが、なんせすべてイタリア語だったのであたしはすこし退屈だった。あぁ、イタ語やらなきゃだわよ。
ジョが後で説明してくれたことによると、なんでもオルシーニ家のあとサヴェッリ家、そしてボルジア家の所有となったとか。ボルジア家はライバルファミリーが残した美しい壁画や装飾を消さずにそのまま使ったっていうのが良いわ。
時を経てイタリアの所有となってからなんとタバコ工場として使われてたらしい。姉妹のお父さんはその工場長で、姉妹は工場だったこの城で工員さんたちに囲まれお嬢様として育ったという。その後お父様はその財でこの城を国から買い取ったと言うからすごい。
ちなみにお父様(故人)は小学校しか出ていない人で、姉妹は村で初めて高等教育を受けた人達だったという(でも英語は一言も話せないw)。

朝食の風景 B&Bは他のお客様とテーブルをシェアするのがいい


ロッジアから裏庭をみる
裏庭からロッジアを見る
オーナーさま姉妹と


Palazzo Orsini 
注:前回のブログでジョがあたしに二人で100ユーロと言ったと書いたけど、本当は110ユーロの部屋だった。と、今サイト見て知った。二人で同じベッドに寝られるならお薦めする(一応真ん中で別れてるベッドだけど)。

ありえないぐらい優美なロッジアからふと稜線に目を向けると、その向こう側にまた村がある。
なんだか大きなパラッツォも見えているじゃないの。
今日はあそこへ行ってみようか。
うん、行ってみよう。
Giove(ジョーヴェ)と言うらしい。
見ると「イタリア、最も美しい村協会」に登録されている村のひとつだという。

楽しみ♡わくわく♡

・・・の、はずが。

まだまだつづく。


Journey to Italy 2014 (5-1): Tarquinia

8月15日、金曜日




前編:Tarquinia

昨日まではなんとなくのスケジューリングはしていたジョであったけど、おさーんがスウェに帰った今日からはなんと、次の日の晩に泊まるホテルさえ決めていないという超ハードボイルドな旅になった。
それにしても今のこの世の中、ネットのおかげで宿無しにならずに済むってほんと素晴らしいことだわよ。
20年前のイタリアだったら(ほんとこないだのような気がするけど)駅にあったオールドスクールな宿紹介所に空室のある宿をなんでもいいから斡旋してもらってたのに。
かなり心配だったので、前の晩に今夜の宿を決めてもらった。
またどこぞの村のB&Bで一晩100ユーロ(二人分)だという。


そんなわけで、今日何するかも決めてなかったあたしたちは3晩お世話になった素晴らしいB&Bにアリヴェデルチして(そのB&Bのワンコやカエルたちと別れるの超辛し)、Tarquinia(タルクイニア)のエトルリア人の墳墓群(ネクロポリス)を見に行く事に。
あぁ、こんなに暑いのに大丈夫だろうか・・・。
期待どおり(爆)ハードボイルドな旅とあいなったのだった。

まず、このタルクイニアの墳墓、期待通り太陽をさんさんと受けている大地にあった。
大地に20ぐらいの小屋が建っていて、その小屋を入ると階段になっていてその下にお墓(玄室)となっている。
そのお墓、まぁ紀元前8世紀から4世紀に造られたものにしては絵も言われぬ美しい装飾なんだけど、墳墓へ下っては登り、そして再び炎天下を歩き次の小屋へ、また下りの繰り返し。しかもその墳墓の下っていうのがジメっとしててイヤな感じなのよ(正直なブログ)。
そのおかげであたまがぼ〜〜となっちゃった。
って、あたし文句多い?ねぇ、多い?

中はこんな感じ。このジメっ加減が伝わるだろうか。




玄室内部
炎天下でもよー勉強しはる
ゼンタングルのパターンっぽい

ぼーっとしながらも、この2500年前の人たちの持ってた技術の高さ、その絵心や遊び心に感動。
虎は虎に、孔雀は孔雀に、男性は現代の人が見てもイケてるメンズに描かれている。
この後行ったタルクイニアのエトルリア博物館(日本語のサイトがちょっと不十分)ではエトルリア人の墓から出土したものがたくさん展示されていたけど、彼らがかなり自由な思想を持っていて、しかも夫婦愛や人間愛を尊重していた民族だったことがしのばれた。
なんでもお墓は来世との架け橋と考えられていたらしく「来世でも同じ妻に会えるように一緒に埋めて欲しい」と書き残した身分の高い人もいたという。男性同士で埋めて欲しい人もいたそうで、出土されたお皿には男性同士のウフフが描かれているものが何点かあった。わおっ♡ 

ちなみに8月15日は日本では終戦記念日だが、イタリアでは聖母の被昇天(L'Assunta)の日。
休日でお店は閉まっていたけど、レストランは休日メニューで営業しているところが多く、あたしたちが入ったレストラン(あぁ腹減り過ぎて名前ゲトせず)も着飾った家族連れ、しかも4世代の家族でパーティしている大人数なテーブルもあって賑わってたの。
街自体も昨日のヴィテルボの暗い感じはなく、なんとなく裕福な気もした。
タルクイニアは海の目の前だから魚介類がとっても美味しいんだけど、イタリアの面白いところは、これが20キロ内陸に行っただけでいきなりメニューが肉中心になるところよ(大都市除く)。
もちろん大人数の中で異人種あたしだけだったんだけど、そんな平べったい顔のあたしにも何人かのおばあさんが「Buon Ferragosto!」(『8月おめでとう!』って意味らしい)と笑顔で声かけてくださるっ。涙。

小さいタコのトマト煮(イイダコではないらしい)下にトーストが敷いてある

タルクイニアの通り
このテクスチャーがええのよ
ぼうず水まきゃ日が暮れる
タルクイニアには結局5時ごろまでいた。
車をスタートさせた瞬間今日泊まるB&Bのオーナーから電話が。
聖母の被昇天祭があるのでそれに間に合うように来たらいい、というサジェストだった。
あぁ、このありがたいサジェスチョンを聞いておいてほんとに良かった(涙)。

今夜の宿は二日前に行ったBomarzoの隣、人口110人あまりのMugnano in Teverina(ムニャーノ・イン・テヴェリーナ)という眠たそうな響きの村にあった。
Googleのマップにも載ってないほどの小さい村なのだけど・・・。
その村に行って今夜泊まるというB&Bの住所の前に立ってビックリ。

後編へつづく。